勉強できる人はどうして勉強できるのかもう20年近く前のことですが、高校の同窓会があった時に京都大学に進学した同級生に尋ねたことがあります。「現役で京都大学に行ってすごいなぁ」と言うと、高校3年生の時は勉強しかしていなかったと答えたのです。 彼は高校一年生の時から、人気者ばかりが集まったバンドのボーカルを務めていて、バレーボール部では中心メンバー、顔はイケメン、性格も非常に良くて誰も彼の悪口を聞いたことなどありませんでした。 陰キャで友達も少なかった私とは雲泥の差です。 彼の返事を聞いて「エっ?」と思いました。高3の時のさよならコンサートを見たし、バレーボールも夏くらいまでやっていたからです。 照れもあったのでしょうが、彼は努力を隠す人だったのです。 もう1人思い出される同級生がいます。 いつも学年トップテン以内には入っており、先程の同級生と同じバンドメンバーでもあり、器械体操部を立ち上げるなどエネルギッシュでした。 高校1年生の初めての遠足で5月の時でした。 バスで目的地まで揺られている時に、彼は世界史の教科書をカバンから取り出し、読もうとしたのです。 周りに冷やかされて、読むのを断念したように記憶していますが、まだクラスにはどんな人がいるかお互い手探りの時期だったこともあり、「コイツはめちゃめちゃ勉強するヤツなんだな」と私は心の中で舌を巻いたのです。つまり、成果を出している人は普段からそれほど勉強しているということです。 ちなみに私は「クラスで一番長生きしそう」と言われるほど、ボーッとしていたので自慢にもなりませんね。教えることと教えられること 自己責任と同じ 同じ先生に教えてもらっても、成績の上がる子もいれば、上がらない子もいます。集中力は必ず必要だとしても、その前提条件として、センセーを敬うとまではいかないまでも、それなりの接し方というのはあるような気がします。学問の神様の悪口を言えば、勉強で損するのは当たり前だし、学校の先生についてアレコレ言っているようでは、成績は上がらないでしょう。志望校に合格した場合はいいものの、希望が達せられなかったことが原因で、今まで教えてもらっていたセンセーを棚卸しする人もいるようです。これは別に年齢が若いとか年をとっているとか関係なく、生き方の問題といえるのかもしれません。自分の見立てが間違っていた場合、その指導者について文句を言うのなら究極的には自分の見る目がなかったという話になります。スポーツの世界でも審判の誤審の所為で、勝ち損なったとかまあいろいろありますが、飛び抜けた実力があればいい話であって最終的には自分の責任といえます。どういった子供の成績が上がるのか どういった子供の成績が上がるのかなと見ていると、大体次のような傾向があることに気がつきました。親御さんが私を信用しているかどうか、先生(塾の場合は私)に対して素直であるか今、学校で習っている勉強が出来ていなくても、漢字の読み書きと計算が出来るか集中力があるかどうか 塾をするまで知らなかったことですが、勉強方法や指導方法について、相談ではなく口出しをする親御さんがごくたまにおられます。子供の成績が上がらないから私の教え方に対して疑問を感じているということなのでしょう。 お互い人間なので、どうしてもソリが合う、合わないがあると思いますが、おそらく子供に対しても「アノ先生はちょっとなあ・・・」とボヤいておられるのに違いありません。 そうすると子供も私に不信感を抱くので「アノ先生のやり方が悪いから成績が伸びない」という言い訳につながってしまいます。 成績が上がる時期は生徒の学力にもよるため短くて、1カ月、長い場合は1年以上かかるのですが、親御さんのなかにはすぐに結果を求める方もおられ、私が基礎を固めたほうがいいのにと思っていても親御さんから電話がかかってくることもありました。けれども、こんなことが子どもの口を通して私に伝わるので、「ああ、あのお家の親御さんはそういった目で私を見ているのか」と私も思ってしまいます。勉強を教えることは私の仕事なので、一生懸命に教えますが、塾に限らず学校の先生に対しても同じように子どもに不満をぶつけているのだろうなと思うと残念です。と書いていますが、本当に教え方が悪いのかもしれないので、時々、指導方法を見直す必要がありそうですね。結局、子どもが勉強に関して、親と学校の先生や塾の先生、そして生徒自身の誰を一番信用しているかということになります。勉強の苦手なパターンについて考えてみました 勉強の苦手な子を見ているといくつかのタイプに分けられます。 先ず第一に、生活不規則型が挙げられます。 意外と毎日決まった時間に寝ていない子供が結構いて、小学生でも中学生でも、時計の針が午前0時を回ってからフトンにもぐりこむこともそう珍しいことではなくて、場合には3時、4時なんていうこともあるようです。 稀にですが、スポ-ツの部活動に励んでいる生徒のなかには体力を消耗して学校でも塾でも船を漕いでしまう場合があります。 塾でコックリし出す子供がいるのを見つけると、私は寝てしまうように言います。 私が注意して、生徒が目をこすりながら本を開けたところで、眠いと頭が全然働きません。机を枕代わりにして寝て、僅かな時間でも集中して勉強したほうが、マシだと思っています。二つ目に思春期お楽しみ型というのもあります。 男の子でも女の子でもどうしても異性のことへ話が移っていくような子供は毎年います。 こうなると勉強どころのお話ではありません。 他には責任転嫁型というのもあります。 自分の勉強不足を棚にあげて学校の先生や塾の教え方が悪いと言うような子供や親もいます。 こうして見ていくと、いろいろな形があります。 私の観察では、実際にはこれらが多かれ少なかれミックスされていますが、勉強できる人は自力本願型で、「先ずは自分が勉強しなければ何も始まらない」というのは共通してみられる姿勢です。勉強のやり方を見つけるのが勉強 この仕事をしていると、生徒たちから、いろいろ質問されます。 そのなかで特に多いのは「勉強の仕方がわからない」です。 そこで、私が学生の時にしていた勉強法を伝えます。 どの科目でもそれほど大差ありません。 先ず、学校と塾の問題集のテスト範囲の部分の解き直しをします。 そして、苦手な問題にチェックを入れましょう。 2回目はそのチェックしている問題を解く。また間違えた問題にはさらにチェックを入れます。 最後に毎回正解するような簡単な問題は解かず、一度目と二度目でチェックをしている部分を解き直します。ほかには、解けるけれども不安の残っている問題だけ挑戦します。 これをそのまま実行する生徒はほとんどいません。 しかし、数少ないということは、実行するだけで差をつけられるということです。 また質問をたくさんする子もいます。 質問して教師に答えてもらったり、質問に質問を重ねて、やり取りをしていることそのものが勉強していると、錯覚している場合もあります。 実際に解き方を説明すると、「わかった」と言ってくれるのですが、その後どうするのか見ていると、答えだけを書いています。その答えに至った途中経過、例えば数学ならば途中の式などは書いていません。 これが、生徒の学力と問題のレベルが合っていないと、それも仕方ないのですが、どんな問題でも同じです。そして、次の問題にとりかかるのですが、すぐに「わからない」と言って、私の顔を見るのです。 そんなことがあってから、私は問題が解けるとか解けないというよりも、勉強に対する考え方、それはつまるところ、生徒が自分で考えて学習を進められる環境をつくることが大切だと思うようになりました。 自分の勉強のやり方を自分で探して、身につけることが勉強であって、どうすれば効率良く勉強できるか自分で見つけないと、なかなか成績も上がりません。成績がクラスの真ん中より上の子は、自分が大切だと思うポイントを問題集やノートに書き込むなど、なにがしかの工夫をしています。 そして、成績が学年でもトップクラスの子は私がメモするように言わなくても、自分でポイントを書き留めています。 こんなことを書いている私は少し職病病でしょうか。書いていることがどうも説教調ですね。わからない問題だとわかるようになる人が成績のいい人 自分で考えて出来る問題なのか、考えても出来ない問題なのか、わかることが大切です。 この言葉を読んで「ハハーン」とわかるのは、ごく一部です。なぜなら成績がクラスや学年で上位でないと出来るか出来ないかの判断がつきにくいからです。 そのくらいの成績の子であれば、「アレ?ボク、ワタシが解けないのならば、他の子が解けるハズがない」と気づくからです。 つまり、普段の結果が良いものであれば、問題が難しすぎて解けないということがわかるのです。 でも、他の子はそういうふうにはいきません。「私がわからないのは、私が悪い」と自分を責めてしまうのです。 同じようにワークブックの問題を全て解こうとすることは、心がけとしては素晴らしいですが、実際に自力で解けるのは学年で10人もいないということもあるのです。 「テスト範囲だから、やらなくっちゃ」と気になるでしょうが、やみくもに弾をたくさん撃つよりも、的を狙って仕留めやすい問題から済ませていくのが、優秀な生徒への近道です。 では、出来ない問題はどうすれば良いのでしょうか。提出する必要があるのならば、まず答えを写してしまいます。そうすれば、少なくとも提出点は確保できます。 それから、もう一度答えを見ながら考えます。それで、解答への道のりがわかればいいですし、わからなければ、今の自分自身の持っている知識では太刀打ちできないと諦めるのです。 また英単語や古文単語などは、書いて暗記するよりも、なるだけ目で覚えるようにします。 答えを見ながら暗記したり、考えるというのは、高校生には特にとても良い方法です。 これは、書くよりも覚えることにエネルギーと時間を使うというということです。 それというのも、高校生の学習量は中学生と比べ物にならないくらい多いからです。 取捨選択することが必要なので、たとえ、解けると一言でいっても、「理屈がわかって、テストで同じ問題が出題されたら解ける」と「解けるけれど、一夜漬けで丸暗記しただけで、意味合いはわかっていない」というのには理解度に違いがあります。 そして、その前の段階にあたる「覚えることがムリ」ならば、いまはその問題が自分自身にとっては難しすぎて手に余るということです。 自分で自分のレベルがわかっている生徒は、このような勉強をしていることが多いので、参考にしてください読書なら早く知識を吸収できる 自分が成長するには『本を読むのが一番効率がいい』と本に書かれていますが、これは本屋さんや出版社が自分が儲かりたいからというところだけではないでしょう。 知識が素早く手に入るということです。電気自動車テスラや宇宙開発企業スペースXの創設者であるイーロン・マスクはロケットのことも本で学んだそうですし、子どものころは本ばかり読んでいたそうです。 学校の勉強で不思議なことの一つには授業のスピードです。授業で1時間あるとすれば、そのポイントはごくごくわずかで大きく分けて三つほどでしょう。本のページ数にすれば数ページにしか過ぎません。1時間あれば本は何ページ読めるでしょうか?いろいろな人との会話から学ぶことも素晴らしいことだと思いますが、それには自分より、仕事や人生やその分野の先輩から話をしてもらう必要があります。ただし、レベルの高い人から認めてもらおうとすると本人に相当な実績や実力や意欲、将来性があると見込まれないと感じてもらわれないと会ってもくれません。 中国ではインテリのことを読書人といいますが、そうすると、勉強をする気があるのならば、誰かに教えてもらうよりも本を読むことが一番安上がりで手近な学習法といえます。母国語と日本語 先日、小学校の同窓会があったのですが、同級生からこんな質問をされました。「子供に英語を習わせたほうがいいかなあ?」 聞けば、彼の子供は漢字と算数の計算が苦手だとのこと。「それなら、英語よりその苦手な勉強をしたほうがいいんじゃないかなあ」 現在小学校では英語の授業が行われていますが、私は中学生くらいまでは国語や数学に力を入れたほうがいいと思います。 それにはワケがあります。 私が中学生の頃、クラスに転校生がやって来ました。 その転校生は親の仕事の関係でしょうか、アメリカだったかどこか英語圏から日本に帰ってきた生徒でした。 本人はクラスで目立つことを嫌って、人前で英語で話すことはほとんどありませんでしたが、周りの友人に促されて少し喋れば、本場仕込みは違うとみんなが感心しました。 英語を話せない英語の先生は授業がやりにくいようでしたが、その子の英語のテストの点数が100点だったかというと、そうではありませんでした。 みんなが思ったほど高くなかったように記憶しています。 なぜならば、問題に書かれている日本語が理解出来なかったからでした。 そうなると学校のテストの内容が実践に即していないともいえますが、「日本語がわからない日本人というのもおかしなハナシだなあ」と子ども心に思ったことがあります。 何かの本で書かれていたことに、通訳を仕事にされている人で引張り凧の人は国籍に拘らず、とても綺麗な母国語を使うそうです。 また背骨の母国語があって、外国の歴史や文化などをより深く知ることが出来るそうです。 海外で勝負の時代だからといっても、日本語を疎かには出来ないと考えています。ここから変える 国語の場合、教科書は学校の授業中に何度も読むことです。 その時にわからない漢字があれば、その時に調べて解決してしまいます。もしわからないようだったら、線を引いておくなりして、あとで調べましょう。家に帰って音読するとバッチリです。 ポイントは家で教科書を読む時間はなるべく減らすことです。漢字も同じです。学校の小テストがあれば、その時に満点を目指しましょう。もし小テストで10点中8点だったら8割も出来ているという風に思っていては点数の伸びはありません。小テストは学校の先生から「ドコソコのテストをするよ」と事前に範囲を教えていただけます。限られた範囲から出題されることがほとんどで、得点しやすいはずですから、満点をとってもおかしくありません。 「ウチの子は本を全然読まないのです」といった御相談が暁塾へ寄せられることがあります。 そういった場合、国語のテストの答案用紙をチェックさせていただいています。漢字が苦手なのか、文章問題が苦手なのか、暗記科目であるどのようにテストの時間配分がうまくいっていないのか、答案からわかることがたくさんあるのです。 ノートやプリントの使い方も注意したいところです。教科書とノートを見比べてノートに書いている部分は教科書のどの部分なのか確認しましょう。教科書をみてからノートを確認するのではありません。なぜならノートに書いている分量のほうが、教科書よりもページ数よりも少ないからです。スーパーで買ってきた大根を真っ二つにするか、みじん切りにするかの違いがあれど、学校の先生は元々の素材である教科書を食べやすいようにノートやプリントにしてくださっています。教科書の内容を学校の先生が纏めておられるのがノートなのですから利用しない手はないのです。そして最大のポイントは教科書を読む、ノートを読む、プリントを読む、問題を解く、と一連の行為をブツ切りにするのではなく、プリントを読みながらノートで確認するといったように、それぞれのアイテムを並行して使うことです。ポイントは、手を変え品を変えて出ているので「アレっ、この言葉はノートにも書いているし、プリントにも書いているな」気づけば、やがて知識は積み重なっていきます。本当に勉強で良い成績を取ろうとするならばそれなりに労力はかかります。ただし、その根本は普段から教科書を授業中に読んでおくことです。わからないことは家で解決しようとするのではなく、学校で解決することです。➀文章が読める。②学校の授業で、どの単元を勉強しているかがわかる③あらすじが言える④どこがポイントなのかがわかる。⑤問題が出れば自分で解けるか判断できる 考えるためにはその事柄に関する知識が必要ですから④までの過程で躓く部分があれば、その知識の不足を補う必要があります。①問題文に読めない漢字があれば、それだけで内容の理解がしにくくなります。もし、読めない漢字が出てくれば、調べるなり誰かに聞くなりして解決しましょう。しかし、文章を読むのが苦にならない生徒ならば、前後の文章であったり、編のつくりなどから「コレかな」と思案を巡らして読める場合もありますが、読書好きの生徒はひとりでにその習慣がついています。②「学校で今日は何を勉強したの?」と訊ねるとモジモジして返事が返ってこない場合があります。そういった生徒は、全体像がわかっていません。例えば、歴史は世界史と日本史があるけれど、いまは日本史を習っている。今日の授業はそのなかの江戸時代なんだな、といったような思考の枠組みが不十分になっているのです。③江戸幕府は徳川家康が初代の将軍だな。例えば、歴史はその人の輝かしい時やひどい時期にスポットを当てています。出来事に目を向けるのもいいですが、歴史はいろいろな人物の人生の一部分を切り取っているのですから、どういった人であったのか、思いを巡らすと全体像がはっきりしてきます。自分がその歴史上の人物だと思うと、家康さんも大変だったろうな、と同情したくなることも出てきます。 たとえば、徳川家康さんは日本を戦国時代で大名がバチバチ火花を散らしていたのを収めた人なんだな。 その最後の大きな戦いが大坂冬の陣と夏の陣だな。徳川さんは上司の織田信長や豊臣秀吉といったあとに天下統一をすることになったけれど統一するまでは織田さんや豊臣さんの言うことも聞かないといけなかったから大変だったな。 75歳は当時では長生きだけれど、戦いに明け暮れて気の休まるヒマもなかっただろうな。 江戸時代って260年も続いて長いけれど、家康さんは初代だから覚えておかないといけないな、アレッ?二代目の名前は太文字じゃないな、三代目の家光は太文字だからこの人は何をした人かな。と疑問が湧けば湧くほど周辺の知識は増えていきます。④ポイントとなるのは教科書でいえば太文字です。 問題集であれば何度も問いに出てくる名前や出来事です。1冊の本のわずか数ページに同じ人物について書かれたりしています。その人がその時代の中心人物だなと気づきます。 1冊でもそうなのですから、学校と塾の本で2冊、3冊とすれば結局のところ、同じ内容の問題なので、見せ方を変えているだけなのです。⑤基礎知識がある程度ついてきたからといって全ての問題が解けるようになるとは限りません。そういった時は前後のページを調べたり、場合によっては答えを見てしまうことが必要です。それが自分の知識とあわせて臨機応変に出来るようになれば勉強はいつでもどこでも出来るといえます。 日本人だから日本語はわかるのだと疎かにしがちなのが現代文です。 実は現代文が出来ると他の科目も自動的に点数が上がるようになります。それは文章を読み解くという力はどの科目にも必要であり、しかも多くの中学生、高校生はそれを無意識で行っているからこそ、少し気をつけて問題を解くだけで点数に反映されやすいからです。ポイントは問題を解く時間よりも復習に時間をかけることです。 いったいどのように復習すれば、実際に成績が上がるようになるのか気になるところだと思いますが、成績のいい生徒たちの勉強法に共通している点の一つです。 古文のポイントは単語(国語)古文は昔のことばだから関係ないと顔を背けてしまう学生も多いことでしょう。しかし、現代はいにしえの時代からの積み重ねであり、『今』もまたこの瞬間に『いにしえ』になります。そう考えると、昔の日本人がどのような生き方をしていたのかということは私たちにとってもそう遠い出来事だと思えなくなるでしょう。 古文の成績を上げるには現代仮名遣いはもとより古語や文法の暗記が必要です。 しかし、古文をマスターするにはまず現代文を一定レベルに到達させることがミソになるため、暁塾ではどんなタイミングで古文の学習を本格的にスタートさせればよいのかも含めてアドバイスしています。 最近の小学生と私が小学生であった30年前を比較すると、さほど目立たないけれども一つ大きく変わった点があります。それは文章を書く機会が失われていることです。 私が子どもの時は、どの学校でも当たり前のように日記を書く宿題が出ていましたが、最近はそういったことはないようです。 文章を通して各家庭の様子がわかるといったプライバシー保護の観点からの配慮があるのかもしれません。 文章を書くというのは、思っていることやアタマにあることを言語化することです。相手に分かりやすく伝える方法を学び、それによって相手に伝え つまり、国語が苦手な子が友達同士との会話を聞いていると、 「ア~、ワ~、スゴイ、ヘエ~」と感嘆文で済んでしまいます。 同じ『アー』でも声の大きさでも気持ちを表すことが出来るので、相手には伝わります。 しかし、小さな子どもであっても語彙が豊富な子どももいます。 同じ内容を伝えるにも、色々な言葉を知っているほうが、時や場合に応じて使い分けることができる分、相手により深く伝えられることになります。選ぶのではなく選ばれるのである 中高生が、どこの高校に入ろうか、大学に入ろうかと調べているケースもあります。 一見将来のことを考えて熱心に見えますが、まずは行けるだけの学力をつけることが先決です。 学校見学も同じで、毎週のように見学に行っていて「ココの大学はいい」「アッチの大学もなかなかいいなあ」と想像を逞しくしています。 しかし、学生というのは本来、学力が高ければ高いほど学校を選べる立場にあります。 週末にいそいそと学校見学に出かけてばかりいると、同じ時間に勉強しているライバルたちに遅れをとってしまいます。 実際に優秀であれば、大学入試の場合、高校からの推薦がもらえるケースもあります。 材料を整えないと料理することができません。 将来、こんなことをしたいということが実際に叶うことは素晴らしいことですが、将来はどんな勉強をしたいのか、どういったことをしたいのか、青写真が描けていない場合は、何よりも勉強をしたほうが足元を固められます。 一見遠回りに思えますが、本当にやりたいことが見つかった時には、勉強をしている分、選択肢が増えていることになるのです。 自分自身が正解の手を指せることのほうが少ないのですから、極力、無駄な手を切り捨てて、次の一手を決断していく必要があるといえます。受験生はクラブや習い事をいつまで続ければよいか 私は卓球部のピンポン玉で野球をしていることがバレたことがきっかけで中学1年生早々に帰宅部へ転部した身ですので、どこまで参考になるかわかりませんが、当時のめり込んでいたのが将棋でした。 朝から晩まで将棋中心で、学校では将棋の問題を書いたノートを横目で見ながら授業を受けるようなこともありました。 だからプロ棋士というものに憧れを抱いていたのですが、中学3年生の夏にはプロの卵である奨励会員になるための試験を受けることを諦めました。 同じくらいの棋力の友人のほとんどは奨励会に進んでいたので、私も受けられるなら受けたかったのですが、親からの助言がありましたし、なにより同年代で実力が抜きんでいるワケではないことを自覚していました。 ひょっとすると、いま『暁将棋部屋』という本を出して将棋に関わっているのもその時のシッポが残っているためなのかもしれません。 しかし、プロへの道が閉ざされると将棋への興味は急速に薄れてきました。 そして不思議なことに勉強にも身が入らなくなったのです。 成績を上げるには時間が必要ですが、クラブや習い事の時間が惜しいと感じるようであればやめて勉強時間を確保すれば良いでしょう。 やめた時間の大半を勉強に費やせるのならば、良い選択になります。 ただし、クラブに入っていて勉強時間が少ないから勉強する時は集中できているといったケースもあるでしょう。 だから、いま勉強時間のことで悩んでいる人は、勉強とほかのことをしている時の切り替えが出来ているのか、確認してからどうするか決めましょう。 こうすればうまくいくという公式はないのですから自分の性格や志望校などを考えて悔いのない選択をしてください。一局の将棋 第2の道をいく方法もあり塾に遊びに来た高校生から「今度のテストで、学年1位になりました」とか「クラスでも上位のほうなんです」といった声を聞くことが、しばしばあります。 その子たちが、どこの高校に行ったか思い出してみると、その時の学力に見合った学校か、偏差値でいうと一つ、二つランクを下げた学校でした。 とにかく学校生活が楽しそうなのです。 それはそうでしょう。こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、中学の時はあまりパッとしなかったけれど、高校になって、成績が目立って良ければクラスの皆から一目置かれるに違いありません。 対局後の感想戦で「この手を指せば一局の将棋でしたね」と言う場合があります。プロが考えてもすぐには結論が出ないような優劣つけがたく、今までの将棋の仕切り直しといったところで、そこから新たな戦いが始まるといった局面のことです。進路についても、昔の試験は当日の一発勝負ということが多かったようですが、いまは学校推薦など入学の門戸が広がっており、高校から推薦をもらえる可能性もあるので、友達が「進路をどうしようか」と悩んでいるなかで余裕を持って毎日過ごすことも出来ます。高校生といえば、精神的な骨格をつくる時期です。その時に、偏差値の高い学校に無理して行ったがために落ち込むよりも、第二の道をとるのも、悪くないんじゃないだろうか、とそんな風に思うようになりました。また、志望した高校へは行けなかったけれども、それから奮起して大学受験では希望が叶ったといったことも多いです。 悪手を指しても結果として勝ちに結びつくことがあるように、最善手が最善手でない場合もあるのが人生の面白さといえるのかもしれません。