怖い先生だから授業中は静かに聞く 今の指導方法に行き着いたのは、ごく自然な事でした。 私は小学校6年生の時に地元の学習塾に通い始めました。最初にクラス分けのテストがあり、まあ言ってみると、いい子ちゃんばかりいるクラスになったのでした。 その時は中学生の勉強の準備ということで、漢字や辞書の使い方、算数の計算、ローマ字などを中心に習っていました。同じ小学校からその塾に通っている生徒は私一人だけでした。 それというのも、自転車で片道30分以上かけて通っていたのです。公立の中学校に通うようになると、いい子ちゃんやわるい子ちゃんなど色々なタイプの同級生がいました。 授業は崩壊しているのが当たり前で、静かになる時はごく一部の先生の授業だけでした。 反対に塾の先生はとても怖い先生で、授業前は「今日の塾長は機嫌がいいかなぁ?」とみんなボソボソ言いながら、塾長が教室にやって来るのを待っていたものです。授業後は、その日のターゲットにされた生徒を慰めたり、慰められたりするような塾でした。 塾の授業は学校の内容より前倒しでした。だいたい1、2週間先の内容を習っていたように記憶しています。授業中に将棋を考えて得たもの そうすると一つ困ったことがありました。学校の授業中はとてもヒマなのです。 学習塾で既に教えてもらった内容を目の前でいくらわかりやすく説明されても、擦り切れたテープをもう一度聞かされるようで、私にとってはあまり意味のない時間が流れていたのです。私も格好だけみると、集中して聞いているように見えていたのかもしれませんが、本当に集中しているかといえば、そうでもありませんでした。 何をしていたかというと、プロ棋士の先生の将棋を思い出したり、ライバルとの次の対局に備えて、どういう作戦で戦うかであったり、詰将棋を解くなどといったように将棋のことばかり考えていたのです。 これは将棋をしている人にとってはよくあることで、決して褒められた話ではないのですが、頭の中を覗かれることはありませんし、授業中にそんなことをしているなんて誰も思いません。 ただし、将棋をしているとアタマのなかで考える癖がつくため、場所や時間を問わずに自分の心に留めている課題や問題について考える習慣がつきます。 小学生だけでなく、中学生や高校生は学校の問題を教科書や問題集などを見ずに同じ問題をズッと考え続けることはなかなかないことでしょう。 「机に向かっていないと勉強できない」という人もいますが、将棋を指していると、こんなところで思わぬ副産物を手に入れることが出来たのです。将棋を指したいから勉強する 塾では授業の最初に毎回小テストがありました。40分から1時間ぐらいです。 小テストで結果が悪ければ、土曜日に呼び出されて、全部正解するまで家に帰ることはできません。小学5年生の12月から中学3年生の夏まで、週末は将棋道場か将棋会館に入り浸りだった私にとっては、塾から補講のお呼びがかかると、将棋の禁断症状が出てしまいます。だから、塾がある日には毎回30分ほど、テスト勉強をしてから塾に通っていました。 小テストが終わった後は、前回の小テストの復習ということで、間違い直しのチェックをする時間が設けられていました。塾長が順番に生徒の名前を呼び、答えさせるのです。 間違えると、塾長は生徒の席までやってきて、いくつか質問などやりとりをします。それでも答えられずにいると、どんどん御機嫌が悪くなり、愛の張り手が飛んでくることはしょっちゅうでした。 そのため、授業中はピンと張り詰めた空気だったものです。しかし、この時間も私にとっては無駄な時間でした。自分にとって既に解ける問題ならば、いくら塾長が怖ろしくともその時間は勉強している時間にはならないからです。そういう時も私の頭のなかでは将棋の駒が飛び交っていました。 それに、塾で毎回新しい内容を習うといっても、どの科目もポイントといえば、精々二つか三つでした。そして数問解いたあとは、みんなで答えをチェックしていました。 こういったやり取りも、解説を読んだほうが早いのですが、それもクラス指導の弱点の一つといえるのかもしれません。宿題は、毎回30分から1時間程度かかる分量でしたが、テスト直しもあるので、毎回のテストでいい点が取れないとさらに時間がかかってしまいます。だから私は将棋を指す時間を確保するために勉強をしていたようなものでした。 サッカーや野球、バスケットボールなどのクラブ活動に熱中している生徒はクラブで自由時間に制約があるために普段の勉強時間は少ないです。 そういったなかで、いかに時間を捻出して成績を確保するのかがポイントになりますが、暁塾の生徒たちの様子を見ていると、テスト前には寝る時間を工夫したり、学校でわからなかった問題については塾で質問して疑問点を放ったらしにしない、といったように各自それぞれ工夫しています。 だから一概に好きなモノから遠ざけて勉強ばかりさせようとするのは、却って非効率だと考えています。同じ内容を同じように習う その塾は地域ではかなり熱心なほうだったと思いますが、成績を上げるにはもっとポイントを絞り、問題集を解いた方が効率的なので、私自身はそちらの方に力を入れて欲しいと思っていました。そして、これもクラス形式の弱点でしょう、私が通っていた中学校からは、女の子がもう一人通っているだけでしたが、塾の授業は大半の生徒が通っている中学校に合わせていたので、私の通っている中学校と勉強している内容にズレが出てくることもありました。 つまり、「学校では習っていないけど、塾で習っている」「塾では習っていないけど、学校で習った」なんてこともあり、学校と塾で別の単元の勉強をしている時もあったのです。本来、塾は学校の宿題を助けるものですが、実質的に一科目多く勉強しているなんてことがあったのです。 そうすると、学校の授業はとても集中して聞かないといけません。そんな時、将棋のことは一切頭にありませんでした。みんな色々言いますが、学校の先生の授業も悪くないものです。 「塾の授業って、先に習うだけで塾の授業はあまり意味がないなぁ。学校の授業だけで十分なのに」 子ども心にこんな風に思っていたのです。 将棋ならば、正解手順も、そのあとの変化手順(次の数手先、数十手先)もわかっているのに、もう一度同じ詰将棋を見せられて「さあ解いて御覧」と言われているようなものです。私なんかはまだマシなほうで、隣の町からやって来ていた生徒の二人は半年くらい学校と塾で違う内容を勉強しているというケースもありました。損してムダを省くことを知りました やがて高校生になりました。これまた、いい子ちゃんばかりの高校です。 勉強で思い出すことといえば、クラブで朝練、夜も遅くまで練習して、それから英語の予習バッチリといった同級生のことです。Windows95が登場する前後のことで、スマホなどはありませんでした。 私は授業前の休み時間にはいつもその友人に頼んで、彼が調べた英単語の意味などをノートに写させてもらっていました。 高校2年になると、ますますサボり癖がつくと共にズル賢くなりました。本屋さんで教科書ガイドというものを買ったのです。そして、手取り足取り解説してくれているその本を学校の授業中に読むようになりました。 これはとても便利でした。学校の先生から単語の意味や文章の意味を聞かれても、教科書ガイドがあれば、アラ不思議。スラスラと答えられるのです。学校の先生の目の前で私が机の上に教科書ガイドを堂々と出しているのを見ても、先生は何も仰いませんでした。 ポイントは教科書ガイドに載っています。不遜ながら、先生のお話よりもさらに説明してくれているのですから、これほど心強いことはありません。 こういったように、手を抜くのではなく、要領良く勉強する癖がついたのは、将棋でいえば、ムダな手を指すのを避けようとする本能からようなものです。こんな授業態度だったので決して勉強熱心な生徒とはいえませんでした。 学校の帰りには、よくみんなで本屋に立ち寄りましたが、本屋さんには問題集がたくさんあります。「さてさて、どの問題集がいいかな」と1度手に取ると、アレもコレも全部欲しくなってきます。でもよくよく考えてみれば、学校の授業だけでも覚える分量は多く内容は濃いので、さらに問題集を買うとなると大変です。そのことに気がついたのは、本代をたくさん払ってからのことでしたが。宿題から経営センスを磨いていた彼ら 今だから言えますが、私は中学生の時に働いていました。 本業が勉強となる学生時代のことですから、副業といってもかわいいものです。 テストの前後には、たいていワークブックやプリントの提出の宿題があるのですが、私はそれを1冊5円とか10円で請け負っていました。高い時は50円くらいだったでしょうか。 学校からの帰り道、駄菓子屋さんでお菓子を買って「これは儲けたなあ」「テストがもっとあれば、ガッポガッポだな」 なんて、一人ほくそ笑んでいましたが、今になって考えてみると、これは完全に彼らに上手に使われていたのでしょう。 目先のテストの点数だけでいえば、クラスメイトの宿題をすることで、必然的に人の2倍は勉強したことになります。 喜んで働いただけあって、成績にもいくらか反映されたようですが、一連のやり取りを経営の観点からみると、彼らは従業員である私に手当を払って宿題をさせていたことになります。 私を雇った彼らが、いま会社の社長さんや人の上に立つ立場にあるならば、今頃上手にやっているに違いないでしょうね。