本気で遊ぶと真剣になる 小学生の時に将棋を指したことのある男性は多いでしょう。学校の休み時間であったり、友達の家で指すといったケースをよく聞きますが、それは将棋はゲームの一種と受け止められているからです。 子どもたちにしてみれば、学校の勉強はイヤだけど、将棋は遊びだから息抜きに丁度いいと考えているのです。 例えば、勉強の日は時間になればすぐに帰ってしまうような子であっても、将棋ならば、教室の時間が終わって5分、10分経っても、まだ将棋を指しているという子が暁塾にいます。本人が嫌がっていることを強制しても長続きはしませんし、効果もありませんが、勉強では出来ないことを将棋なら喜んでしているのです。 しかし、私に言わせると、将棋は単なるお遊びではありません。知的ゲームであり、もしプロ棋士やアマチュアの多くの方が仰るように、学校の勉強よりも将棋のほうが難しいのであれば、子どもたちは将棋を指したほうが良いのかもしれないとすら考えています。 なぜなら、普段から奥深いものに取り組んでおけば、他のことでも容易にその要領を身につけられるといったように応用が利くからです。 つまり、自発的に将棋を指している子どもたちは、本来嫌な学校の勉強よりも難しいことを喜んでしていることになるのです。 ところで、将棋を指し始めると、考える習慣が身につくようになります。これは棋力に関係ありません。普段はやんちゃであったり落ち着きがない子であっても、「将棋を指している間だけはおとなしくなり、少し口数が少なくなりました」と仰る保護者の方もおられます。 子どもは本気で遊ぶと真剣になるのです。将棋を指せば、自然と本を読むようになる 将棋教室に通っていると、ライバルの存在を無視することは出来ません。 「〇〇君、〇〇さんに勝ちたい」 その一つの方法として、相手を出し抜く秘伝の書が必要になります。そこで、『将棋世界』を始めとする月刊誌や将棋の戦法や詰将棋について書かれた本を片っ端から読むようになるのです。学校の図書室にある将棋の本も全部読んでしまうことでしょう。将棋を指すようになれば、自然と本を読む習慣が身につくのです。 将棋の本は、いわば専門書なので、子ども向けの本は比較的少なく、大人が読むような漢字ばかりで書かれていることも珍しくありません。しかし、将棋が強くなりたいと思っていると、たとえ学校で習っていなくとも、前後の文章から読み解いてしまうのです。興味や関心のある分野にはアンテナが張り巡らされるようになるのでしょう。 私の場合でいうと小学生の頃から、朝起きると、まず新聞を開いて将棋欄を読むことが習慣になっていました。そして次は社会面です。将棋に関する記事がないか目を通すのです。当時は新聞が一番の情報源でしたから、タイトル戦の翌朝などは、朝起きたらすぐに新聞を手に取っていました。やがて、将棋に関係ない記事も次第に読むようになりました。 今の将棋少年・少女だと、もっぱらインターネットで情報収集しています。 将棋を指せば、それに関連する活字も目に飛び込んでくるようになります。つまり、小学校であったり、中学校であったり、高校でも、漢字のテストがあるからといって、改めて勉強することはほとんど必要ありません。なぜなら将棋の本からそれらの言葉を自然と身につけるようになっているからです。 将棋の本にはパッと思いつくだけでも「必勝」「敗着」「筋」「盤」「駒」「変化」「図」「局面」「解説」などといったように、小学生には少し難しい漢字が含まれています。 また、解説は数行ではなく、1ページや2ページに及ぶといったような長い場合もありますが、上達するには、それらの言葉の意味だけでなく文意を理解しなければなりません。 また将棋の本は「一回読んで終わり」とはいきません。読みながら駒を動かしてみたり、ちょっとわからないところがあれば、前のページに戻って再び考えることもあります。そして読み終わっても、また別の日に「あの戦法の指し方はどうだったかな?」と確認するといったように、何度も読み返すのです。 つまり、強くなろうとすれば何度も本を読まざるを得ないのです。一冊の本を繰り返し読むことで、ようやく記憶が定着して、将棋の戦法などを体系的に身につけることができるようになります。国語力アップ小学生で習う漢字と計算が出来るかどうかは中学生、中学生で習う漢字は高校生以降の各科目の点数に大きく関係しています。 例えば、中学1年生の最初に行われる英語の定期テストならば、ロ-マ字を覚えているだけで、比較的高得点が取れます。 ただ、次第に覚える単語や新しく習う文法も増えて難しくなってくると、そのまま点数を維持する子もいれば、点数の下がる子もいます。その違いはどこにあるかというと、小学校の時に漢字をきちんと覚えていたかに懸かっています。「漢字と英語は関係ないんじゃないか」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、英単語を暗記するには、スペルだけでなく、意味も暗記しなくてはいけません。小学校の時に漢字を覚える習慣が身についていないのに、中学校になって英単語が覚えられるはずがありません。 ましてや英文を暗記することは出来ないでしょう。 生徒の親御さんのなかには「国語は日本人だからしなくてもいい。 それよりも英語」と考えている方もおられます。しかし、国語は全ての科目の根幹をなすものです。母国語が日本語であるならば、ものを考える時は日本語でなされます。「この花はきれいだな」と心の中で呟くことはあっても、「Beautiful!」とは言いません。 暁塾では、漢字の読み書きが出来ているか出来ていないかは、国語だけでなく勉強全般にわたって大きな影響があると考えています。 塾をしている私がこんなことを言うのは、タコが自分の足を食べているようなものかもしれませんが、小さい時から塾に毎日通わせて消化不良になるよりも、子どもが自分の好きな本を読むことの出来るような環境を整えるほうがいいでしょう。そのきっかけとして将棋は手軽に始められるものと言えます。やがて、将棋を指しているだけで同年代の子どもたちの聞いたことのないような言葉をたくさん身につけることが出来るようになるのです。 将棋ほど良いものはちょっと見当たりませんね。論理的思考獲得! 算数も出来るようになる小学生の子供を持つ親御さんから「ウチの子は算数の文章問題が出来ないんです」というお悩みを聞くことがあります。どういうことかというと、文章問題の問いに書かれている内容が理解出来ていなかったり、その単元の基本的な公式があやふやだったり、計算問題を順序立てて解いていくことが出来ていないのです。 計算で躓いている場合、どこが原因なのか生徒のノートを見せてもらうと、いきなり答えを書いている場合などが少なくありません。計算は一行ずつ、二行目、三行目と紐解いていく必要があります。だからそれが苦手ということは筋道を立てて考えたり、結論に至るまでの思考力が弱いという風に考えることも出来るのです。 将棋は一手間違えると、それまでいくら形勢が良いとしても一気に形勢が逆転してしまいます。前後の手と関連がない一手でそれまでの将棋がなし崩しになってしまうのです。 私たちアマチュアがしょっちゅう指してしまう悪手というのは、手順の前後で辻褄が合っていないということなのでしょう。 プロの先生のような思考力をわが身に求めることは出来ないことですが、例えば、終盤のある局面で、相手の玉を詰めるにはどうすればいいか、どういった形になれば、自分の玉が詰めにくくなるのか負けにくくなるのか、結論から考えるようになるのです。 数学でいうならば、仮定が与えられる問題から、いかに結論を導き出すかという証明問題と同じといえるかもしれません。 将棋が好きな子どもは、理数系が得意だというケースも多いですが、理論立てて考えられる子が将棋好きになるのでしょうか、それとも将棋からそういった考えからが身につくのかわかりません。しかし、結果として、学校の成績につながっているといえそうです。道場や教室で幅広い世代との交流 小学生だったある週末、自宅に電話がかかってきたことがありました。 担任の先生ではなく、隣のクラスの先生からです。 「アレ、最近なにか悪いことをしたかな?」と自分の胸に手を当てましたが、そんな覚えはありません。 先生が何を仰るのかと、ソワソワしていると、なんと将棋のお誘いでした。 その先生は将棋クラブの顧問の先生でもあったのです。 また、塾に入ってからも普段は楽しいけれど、怒ったらコワイある女性の先生から呼び出しがかかったこともありました。 「今度の日曜日空いてる?」とお訊ねです。「補習ならいつもは土曜日なのに。参ったな」と恨めしそうに先生の顔を見ると、「知り合いのオジサンが将棋やらへんか?って」 当時は今よりも将棋を指せる子どもは少なく、ちょっと将棋が指せると、すぐに近所の腕自慢のおじさんたちから声がかかったのです。近所の病院で、入院中の誰だか知らないおじいさんと指したこともありました。 将棋教室や将棋会館などは、将棋が好きな人が集まる場所なので、そこにはいろいろな年代の人がいます。小学生にしてみれば、学年が一つ上だけでも随分とお兄さんに見えるものです。 小学生がおじいさんと対局することは珍しいことではありません。昭和40年台頃までは、縁台将棋といって、夏の夕方に外で涼みながら将棋を指しているのを近所の人や通りがかった人が周りを取り囲んで見ているといった光景が見られたり、銭湯などでも湯上りに指している人も多かったようです。当時と比較すると、今は大人と同じ空間で同じことをして時間を過ごすということは限られているでしょう。 将棋は、対局中にワイワイ言いながら指したり、直接会話を交わすことは少ないですが、「棋は対話なり」という言葉があるように、目の前に座っている相手と盤上でそれを行っているということになります。 また一局が終わったあとには、感想戦というものが行われます。盤面を元に戻しながら、「こう指せば良かった」とか「この局面でこの手なら、こちらが負けていました」と振り返るやり取りのことです。 その時に、対局相手である大人の感想を聞いたり、意見を交換するのですが、将棋でもしなければ、なかなか長時間年上の人と言葉を交わしたり、一緒に時間を過ごすことはそうそうありません。しかも対等の立場です。 将棋少年・少女には大きく二つのタイプがあります。 とても大人しい子供と、とても大人びていて大人よりもしっかりしている子です。 とても大人しいというのは、人と付き合うより自分と付き合うようなタイプなので、自分の考えを研ぎ澄ませて次の一手を指す将棋は合っているのでしょう。 社交的なタイプはそれに加えて、年の差だけでなく、地位も立場も関係なく楽しみながら大人の香りのようなモノを嗅いで自然と視野が広くなっていきます。 将棋を指している子どものなかには、どこか大人びたところがあるように見えるのも、そういったところにあるのかもしれません。 子どもにとって自分と年の離れた人と過ごすことは、とても良い影響があるようです。 小学生は近くに中学生や高校生がいると、お兄さん、お姉さんということを意識して静かになります。中学生にしてみれば、小学生の目が気になるので、そうそうバカなことも出来ません。お互いに背伸びをするからなのかもしれません。自ずと集中する環境を好むように 将棋の駒は指先で動かせるので、体力を使わないと思っている人も少なくありません。しかし、実は知的格闘技であり、体力的にも疲労度が大きいのです。アマチュアであっても、将棋を半日でも指していると頭がクタクタで、モノを言うのも億劫になってしまいます。きっとこれは他の習い事にもあてはまるのでしょうが、自分なりに一生懸命取り組んでいると頭は疲れてしまいます。 ひょっとすると、他人から見ればボーっとしているだけに見えてしまっているかもしれません。プロの先生方の場合、対局が終われば2キロ、3キロ痩せるというケースも少なくないようです。同じ局面でずっと考え続けることはそれだけエネルギーを消費するということなのでしょう。 対局中でも、トイレに立ったり、お茶を飲むなど、ほんのつかの間の時間があります。 これは休憩というよりも調子を整えるといった意味合いがあります。 勉強も時間をかければいいというものでもなく、集中力が続かなければいくらやっても同じです。時々休んで頭をリセットする方が能率が上がるでしょう。 そんなこともあり、暁塾では40分くらい勉強すると、10分ほど休憩して、それから再び勉強してもらっています。 小学生にとって、休憩時間は近所の駄菓子屋さんへ行くお楽しみの時間です。私がポケットから財布を出すのを今か今かと待っています。 集中するというのは自分の世界に没入するということです。つまり、自分の頭で考える習慣がある子とない子の違いは、黙々と問題に向かう時間があるかないかで判断出来るように思います。 将棋教室に通っている子どもたちは、何時間もいろいろな相手と指しているのですからとても脳に汗をかいていることになります。負けた原因は自分にある将棋の何が良いかといえば、勝っても負けても、それは自己責任だということです。 普段はなかなか自分の失敗を認められなくとも、自分の王様が詰められると、相手に頭を下げるほかありません。だから、それがたとえ孫のような年齢の離れた相手であっても、自分の王様が詰められると「参りました」と口に出さざるを得ません。 学校の点数が上がらない時に、「学校の先生の教え方が悪い」「自分のやり方が悪い」「親が悪い」「テストが難しすぎる」「クラブが忙しい」「習い事で大変だ」「時間がない」他にも「勉強する時間がありすぎる」なんていうように、アレコレと言い訳を言いますが、みんな基本的に事情は似たり寄ったりで、ほぼ同じ条件です。 同じ条件で同じ結果が出ないということは、人と同じようにしていないということになります。 将棋は勝負事で、しかも個人競技ですので、負けた時にその理由を他に持っていきようがありません。だから自分自身の不甲斐なさに対して悔しくて、自分自身の指し手を反省する機会になります。 負けず嫌いの人の中には、あまりに負けると悔しすぎて、将棋を指すのが嫌になる人もいるようです。それが本当の負けず嫌いな人なのかもしれませんが、勝負事というのは、自分が一番でなければ、必ず一度は負けるということです。そして麻雀やトランプなどと違い、将棋は運よりも実力の要素が大きな割合を占めます。 どうしても負ける相手はいるものですが、負けるのは、相手の手が素晴らしいというよりも、自分が明らかに悪い手(悪手)を指したからだということがほとんどです。少しでも強くなろうとすると自分の悪い癖、悪手を認めて新しい知識を得ようとするそのことが前進への第一歩になります。勉強も同じです。結果が出ない時には、自分の勉強の仕方が間違っている場合がほとんどなのです。