先生の予測は100パーセント小学生一年生の時に父から教えてもらった将棋でしたが、家ではしょっちゅう指していて、近所や学校で指すこともありました。普段は学校が終わると、みんなで近くの公園へ行って野球をするのがお決まりでしたが、四年生の時には学校の囲碁将棋クラブに入っていましたからやはり将棋が好きだったのでしょう。関西将棋会館にたまに連れて行ってもらうようになったのもその時期でした。どんどん将棋熱が高まってきたのを見た母親が、電話帳で探して小学5年生の12月には当時天王寺区の阿倍野にあった将棋道場に通い始めました。6年生の夏頃には、初段の免状をもらえるようになりました。しかし、私は「ホントに初段の実力があるのかな?」と自分の実力を疑いました。それというのも、数か月前に関西将棋会館へ行った時には10級で指していたからです。小学校では勝つことはあっても、負けることはなかった私なのですが、将棋会館へ行ったらサッパリです。しかし、それから後、関西将棋会館に行くと、10級から初段までノンストップです。昼には10級だったのに夕方には9級に上がっているといった風で、「アレっ、本当に初段の実力があるようだな」と驚きましたが、初段になってからそれまでの連勝がウソのようにピタッと止まったことには、もう一度驚きました。それから中学3年生の夏の間までは、当時阿倍野の将棋道場と関西将棋会館に毎週末通い詰めていたものです。プロの世界の香りを聞き、勝負の厳しさを知る当時通っていた道場の一つ上の先輩は研修会に入会していました。先輩は研修会があった数日後、道場に顔を出すと先生に「何勝何敗でした」と結果を報告するのです。その姿を見て、なんだか羨ましくなり、私も研修会というものに入ってみたくなりました。そして、中学2年生の時に私も入会したのです。当時アマチュア四段の棋力でした。 アマチュア有段者の小中学生の多くは研修会に入会します。そこでは毎月2回、腕に自信のある子どもたちが腕を競うのです。研修会は今のように名古屋や福岡にはなく、私の頃は東京と大阪だけでしたから、地方から西の聖地である関西将棋会館に来ている子どももいました。プロ棋士の先生やその卵である奨励会員の方による指導対局が、月に一度受けられることも魅力的でした。研修会はあくまでもアマチュアの少年少女たちの集まりですが、その先には奨励会……つまりプロ棋士である師匠の弟子となり、プロをめざす若者が鎬を削る場に身を置くことを選ぶことも出来るようになります。 私が将棋道場や将棋大会で知り合った友人たちの多くが、奨励会に入会しました。私自身も研修会から奨励会に行きたいという気持ちはありました。受験しようと思えば出来たのかもしれません。子供にとって、プロは憧れの存在です。私自身も頭をよぎらなかったといえばウソになります。 一方でその厳しさはよく理解していました。正直なところ、友人たちが将棋一筋に打ち込む姿は羨ましかったものの、私自身ならば、まったく芽が出ないままであろうことはその時点で感じたものです。 そのあともしばらくは研修会には在籍していましたが、ほどなく私は退会しました。そうして将棋熱が次第に冷めていきました。 高校生になると、将棋大会にちょっと参加する程度で、四六時中将棋のことを考えるといった風ではなくなりました。 ところが大学生活を送っていたある日、突然将棋会館から電話がかかってきました。研修会でアルバイトをする人を探しているということでした。 「どうして私に?」と思いましたが、将棋関係のアルバイトをする人は、将棋を指したことのある人のほうがいいでしょうし、研修会のことを知っている元研修生のほうが、便良かったということでしょう。 なにより、たまたま、なり手がスグには見つからなかったのでしょう。 誰と誰が指すのかを決める手合い係のアルバイトをするようになり、研修会幹事のプロ棋士の先生であったり、指導対局にやってきた同い年の奨励会員と話をしたり、将来のプロ棋士を間近で見ることになりました。 勝手知った研修会の、しかも日当のいいアルバイトでしたから私は嬉しくて仕方ありませんでした。多面指しから餅は餅屋を知る将棋に夢中になった経験から、アマチュアとプロには大きな差があるということを知ったのは悪くないことでした。 将棋のイベントではプロ棋士が一人で数名、場合によっては数十人と一斉に指す『多面指し』というものがよく行われています。駒を動かすだけなので、見た目には相手が一人でも数人いても同じように見えます。 しかし、見るのと実際に指すのとでは大違いです。私が生徒と二面指し、三面指しをすると、普段ならば私が駒を落としても負けないはずなのに、平手で負けてしまうことが間々あるのです。 プロが簡単にしているように見えることであっても、それは修練を積んでいるからなせる業だということは、自身が同じことを体験するとようやくわかります。そして、スポーツや芸術ばかりでなく、専門分野をお持ちの方には畏敬の念を抱くようになりました。 そういったこともあり、私は日常生活で何か困った時があれば、『餅は餅屋』と言う言葉を思い出し、なるべく専門店や専門家のところへ駆け込むようになりました。 暁塾でも毎年同じことを教えているようでありながら、生徒の質問などから教え方を少し変えたり、いろいろな科目をドンドン深堀りしていくために知識や経験が重層的になってきます。 一瞬で身につけられるものもあるでしょうが、時間をかけて得られるものとがあることを考えると、門外漢からは見えない世界を生きている人たちの意見には耳を傾けるようにしていきたいものです。勉強法の基本とは 定跡書(教科書)を大切にするいくら「自分で考えることはいいことだ」と言っても『下手な考え休みに似たり』といった格言があるように、最初から自分の力だけでうまく指すというワケにはいきません。平安時代には今の原型となる将棋が楽しまれていたという記録が残っていますが、遥かな時を経て令和のいまは多くの定跡が生み出されています。 定跡とは「この時は、こう指したほうがいい」とか「こういう玉の守り方がある」などといったような、多くの人々の実戦や研究から紡ぎ出されたその時点での理論であり、公式のようなものです。公式なので、時折覆されることもありますが、それらは極めて稀なことです。初心者の方ならば、最初のうちは気ままに駒を動かしてみるでしょうが、それでは一向に勝てません。なにも知らずに丸腰で戦いに臨むようなものです。 そこで定跡を真似してみるといったように工夫してみると、少しずつ白星を手にできるようになります。 そして、勝てるようになればなるほど、自ずと定跡の大切さを知るようになります。学校の勉強にも同じことが言えます。教科書には用語やポイント、公式があります。ありがたいことに、ひと目でわかるように太文字になっていることもありますが、それらを素通りして内容がわかるというわけにはいきません。多くの人が同じ道を通っているのですから、その道は踏み固められています。そうして道に沿って歩いていくといつしか目的地に辿り着きます。 最初から定跡に背を向けて自分の思うがままに突き進むと、落とし穴や迷子になってしまうのですから、先人たちの汗を無駄にしないためにも教科書を軽んじることのないようにしましょう。 例えば、国語の定期テストなどには、大量の文章が書かれていますが、普段から教科書を読んでいると、テストに出ているその文章を読む必要もありません。もし、教科書をおろそかにしているようだったらテストの時に、文章を読んでいるだけで時間が経ってしまった、といったような結果になりかねませんから心したいことです。知識と考えること まずは知識を 知識と考えることは別のことです。「宝物のありかが見つからない」といっても宝物がどこにあるのか知らないのと、地図を持っていて探してみたけれど見つからないのとでは「どこにあるのかわかりません」と言っても、元々の知識がなくてわからないのか、知識があり考えたけれどもわからないかでは土台に違いがあります。 知識がなければ、考えても「下手な考え休みに似たり」で時間が経つだけです。 知っていることが多ければ多いほど見るもの聞くもの全てがより身近なものとして感じられ知識が幾何級数的に増えていきます。 知的好奇心が旺盛だと、学校の勉強に留まらず、色々なことに関心を抱くような人になるでしょう。記憶から創造へ定跡は既にレールが敷かれている道なので、そのまま歩いていくと楽に勝てるときがあるかもしれません。ただし、自分が覚えているということは、相手も覚えているということがほとんどです。また、定跡といえども日進月歩であり「いままではAという指し方が有力だったけれども、令和の時代になってからBの指し方がより優れている、いやCの指し方もある」「いやいや、先手のほうが優勢だと思っていたけれども、後手のほうが指しやすいのではないか」と、その結論も変わっていくので、単純に結論を覚えていればそれでいいということではありません。 反対に自分よりも相手のほうが、その局面については、実戦経験が豊富であったり、研究が進んでいる可能性もあります。 定跡を覚えているだけならば、相手から一手でも違った手を指されるだけで、局面がまったく変わってしまいます。そうなると、そこからは覚えていた知識は役に立ちません。その時に自分で考えないといけないので、いくら記憶力が優れていても、覚えていれば勝てるというわけでもないのです。 それを承知の上で、想定したある局面に導くのか、それとも導かれるのか、相手との駆け引きになりますが、そこからが本当の勝負で自分の頭で考えることが必要になってきます。 また長い目で見ると、勝つことばかりが良いことばかりではありません。負けることで覚えることもあります。 なぜなら「この前は、こういう指し方をしたからこの相手に負けた。けれども、今日は自分よりも弱い筈のあの相手にも負けてしまった。ひょっとして、自分の得意戦法だと思っていたこの指し方は、良くないのではないか」といった反省材料から、次からの新しい指し方を研究するきっかけにもなるのです。 ただし、この場合は負けたり、局面が不利になることで得られる結果なので、なるべく避けたい方法ですね。 公式を覚えていても、それだけでテストの問題が解けるというわけではないのと同じといったところでしょうか。結果が出なくても継続する「山高ければ谷深し、谷深ければ山高し」といいますが、なかなか思うようにいかないとき、スグに諦めていると良い結果が出ません。そんなときは、黙ってコツコツとやっていくほかありません。将棋でも学校の勉強でも同じようなことが当てはまります。 それというのも、私は小学6年生で初段の免状をもらってから、1年半から2年近く初段で足踏みしていたのです。初段になるまでにはわりあい順調だったのですが、その時と同じように、いやそれ以上に将棋に夢中になっているのに、将棋を指していても一向に勝ち星が増えず、自分自身でも「もうこれ以上強くならないのではないのか」といった焦りのようなものを子ども心に感じていたのです。 ところが、どういうわけだか、中学2年生の夏頃になると急に勝ち出しました。3ヶ月ほどで二段、三段、四段になったかと思うと、それからほどなくして五段になったのです。 その間、自分では強くなったような手ごたえは全くと言っていいほどありませんでした。 成績がスグに上がらないからといって「やーめた」と腰砕けになれば、それまでの努力は水の泡です。いつなんどき点数が上がるかわかりませんが、暁塾の生徒たちをみても、右肩上がりに順調に成績が上がるというケースはほぼありません。 それよりもいったんは大きく上がったあと、下がるか横ばいでしばらくは低迷したかに思えることも多いのです。 点数が上がっていないと思っていても、テストの問題そのものが難しくて、自分よりライバルたちの点数がもっと低いといったこともありますし、反対に、いつもより点数がいい時でさえ、問題が簡単で、実質的に成績が下がっていることさえあるのです。数字だけ見ていると本当に点数が上がっているのか下がっているのか、見誤ることさえあります。 喜んだり、悲しむこともあるでしょうが、他人と比べるよりも淡々と自分の実力をつけることに重きを置きましょう。多くのことからわずかなものを得るよりも、一つのことから多くのことを手に入れましょう詰将棋というのは相手の王様をやっつける方法を考える問題のことです。 盤面や本を見ながら駒を動かさずに考えるのですが、コレは結構しんどいもので、作品によっては解くのに30分、1時間、場合によっては数日かかることもあります。しかし、不思議なもので慣れてくると「こういった筋があるなあ」と分かってきます。いわばポイントがつかめるようになるのです。詰将棋をすれば、終盤力が上がると言われることも多いですし、実際に詰将棋を解けば解くほど勝ち星は増えていきます。しかし、詰将棋を解くことで単に終盤力がアップするというよりも将棋を指す上での必要な読む力を育てられると考えておられるプロ棋士の先生方も多いです。 子どものなかには、「この詰将棋の本は全て解けた」といってもすぐには新しい将棋の本を買ってもらえないこともあるでしょう。 しかし、それが将棋が強くなる一つの秘訣なのです。 子どもは仕方なく同じ詰将棋を何度も何度も解くようになります。いくら一度解いたことがあるといっても、しばらく時間が経つと忘れてしまうので、同じ問題でも同じ部分で躓いてウンウン唸って考えるのです。 次のページを開けたら答えが載っていることを知っていても、そこをガマンするのです。 単にその問題を解くにあたっての知識がないだけなのかもしれないのでそうなるとしめたものです。一手詰から始まって、三手、五手詰と手数が伸びるにしたがって難しさもアップしてきます。そして七手詰や九手詰を解ける頃には初段の免状が手に届くようになってくるのです。 今まで勝てなかった相手にも勝てるようになってきます。そうすることで、詰将棋を解けば終盤力がアップするということになります。序盤と中盤でロープ際に追い詰められたような将棋であっても、猛烈なパンチを繰り出してひっくり返すというようなことも一度や二度ではなくなってきます。 本屋さんやアマゾンならば、新しい問題集がズラリと顔を揃えているので、どの問題集がいいかなと色々な本を手に取ってしまいますが、元々入試やテストに出る部分は決まっているので、大なり小なり書いていることは似ています 本を探すことに能力をかけるよりも、どれほど難しい問題であっても誰かが考えた問題です。どこかに解決の糸口があるはずで、それに力を入れることが実力をつける近道になります。多くのことからわずかなものを得るよりも、一つのことから多くのことを手に入れましょう。棋譜並べ将棋が強くなる方法として、定跡を覚えることはいいことですが、いわば教科書のようなものです。 理論だけでなく、より実戦でも役立つよう準備する必要がありますが、その一つとして棋譜並べが挙げられます。 棋譜というのは、その一局の将棋の指し手である駒の動きを記録したものです。 つまり、棋譜を並べれば、誰がどう指したのかトッププロの実戦までも、目の前で再現することが出来るのです。 一流の芸を味わいながら一手ずつ駒を動かすことで「自分ならこう指すけれど、指さなかったのはどうしてかな」「いまは先手と後手のどちらが優勢かな?」と指し手ばかりでなく「この局面で長考しているのは、読んでいない手を指されたということかな?」などと対局者の心理まで推し量るようになるのです。 勉強でいうならば、問題集の例題がこの棋譜並べになります。学校のテストや入試のことを考えると教科書だけでなく、問題集に載っている例題も、教科書と同じように多くの専門家の先生方が携わっておられるので、ポイントがぎっしり詰まっています。 例題を読んでから、自分で解いたものと見比べて、ポイントの書き洩らしがないか、チェックしていくのです。そうして一問ずつ例題を解いているうちに、あることに気づくようになります。 それは、例題同士のヨコのつながりです。「どうしてこの順番に例題が並べられているのかな?」「文字や数字が変わると、この部分の解き方が変わるのだな」「ナルホド、この2つの例題は同じ公式がもとになっているからだ」などと教科書や問題集の作成者の意図にまで目が届くようになるのです。 例題はいわば、実戦(問題集の問題やテスト)と理論(教科書)を結びつける中間的な存在です。棋譜並べをすれば、その一局の全体像が掴めます。例題も解けば解くほど、言葉や数字の意味を考えるようになります。 そういった点から、暁塾では先ず問題を自分で解いてもらう前に、例題を確認してもらいます。 暁塾の卒業生には「数学は例題を中心に勉強して、志望校に行きました」といったような果実を手にしたケースも多いのですから、侮ることは出来ません。 例題は要領が詰まっており、簡にして要を得た説明がなされているのです。捨てる問題を探そう将棋の対局中、有力な指し手が何通りか思い浮かんだ時に、どの手を選ぶのかは性格などにも影響されます。慎重派であったり積極的であったり、またその将棋の流れなども多くの変数があります。 一体、どの手が最善の一手なのか、自分の棋力ではわからない局面がたくさんあります。また時間の制約もあります。考えればわかるというよりも考えてもわからないから、どの一手を指すか決断が求められます。そして将棋は自分で考えて自分で一番良い手だと思った手を指すのですから、棋力に関係なくたくさんの選択肢の中から、自分で考えないと次に進めないのです。 つまり、どの手を選んでどの手を捨てるか、一手ごとに決断しています。学校のテストであっても、いつも暁塾で練習しているような基本問題ならば、解く必要があるでしょう。反対に、学校でも暁塾でも見たことのないような問題ならば、その多くは捨てる問題です。なぜならば、限られた時間のなかで、解くには時間がかかり、しかも正解かどうかはっきりしないからです。そういったところに力を注ぐよりも、時間をかけずに直ぐに解ける問題を解く方がいいでしょう。もし、時間内に、一通り解き終わっているならば、ミスがないか解き直してチェックするほうがいいでしょう戦略を考える大会に参加することは、日頃の腕試しの機会でもあり、子どもたちにとって心躍るイベントです。 大会だけではなく、将棋道場や他のイベントなどでも顔を会わせたり、大会などで指すこともあるでしょう。そうして次第にライバルとして意識するのです。 やがて、将棋友達でありながらも大会で対局することを想定し、相手の得意戦法に対して自分も得意戦法で立ち向かうのか、それとも意表をついた作戦に出るのかオーソドックスに進めるのか研究するようになります。つまり、大会に向けてイメージトレーニングを行い実戦に備えるのです。 学校のテストも同じです。大抵、テスト1週間前になると、テスト範囲や課題が書かれたプリントが学年ごとに一斉に配布されます。 それからテスト勉強や課題に取り掛かっているようでは、あとでテストの答案用紙を見た親御さんから大目玉を喰らう人も出てくるでしょう。 先生方のなかには、1週間前よりももっと早くから学校の授業中に、どこが範囲になるかということをそれとなく教えてくれる場合もありますし、授業の進度からテスト範囲の見当をつけることも出来ます。 提出物の問題集やワークブックは普段から自分で少しずつこなしておけば慌てる必要はありません。テスト勉強は1週間ではなくて、もっと前倒しして始めるようにしましょう。理想は2週間前にはその時点で習っている範囲を一度済ませておくことです。そして、どの科目をどのような順番で勉強していくか計画を立てるのです。ちょっとした工夫ですが、英単語や漢字などはなるべく学校の授業中に覚えてしまって家で勉強する時間をなくしてしまいましょう。 まずは、目先のテスト当日にピークを持っていきましょう。 しかし、受験のことまで含めて考えると、学力を維持し、さらに向上させることも考えておく必要があります。 もし次に同じ問題が出たときに、なんなくこなせるようにするために、テストで間違えたり、運よく正解だったようなところなど、塾の問題集や学校の問題集にポイントを書き込むこともその1つでしょう。 その他にも、どういった風に復習すれば成績が上がるか考えて、自分流の勉強法を作りあげましょう。 テストで良い点数を取れると嬉しいものですが、テストが終わった後は、点数のことよりも解き直しをして、同じ問題が出たら完全に出来るようにするほうが大切です。 テストを受ければそのままほったらかし、答えを写してほったらかしではいくらテストを繰り返しても点数が上がりません。 計画を立てているうちに、普段の授業にも力を入れる必要があることに気づくかもしれません。 もちろん、計画通りというわけにはいかないこともあるでしょう。そんな時は、予定を変更する必要はありますが、用意周到に準備をすればそれだけ的に命中しやすくなるのです。テストの反省会をしよう 色々な人と将棋を指すことは将棋が強くなる第一歩です。勝てばもちろん嬉しいですが、それよりも将棋が終わってからの感想戦に上達のカギが隠されています。 感想戦とは「ココではこんな手を指せば良かった」とか、「この手のほうがイヤでした」といったように対局者が一局を振り返るいわば反省会のことです。 勝者は、勝って兜の緒を締めるという意味合いと、負かした相手を気遣う面もありますが、当然ながら勝ちを手にしながらも今よりも更に強くなりたいという探求心が根底にあります。 敗者は、どう指せばもっと上手くなるのか上位者に教えてもらい、それを次の対局の糧にします。まだ将棋を覚えたばかりの子は、決着がつけばすぐに盤面を崩して次の将棋を始めますが、将棋が上達すればするほど感想戦を大切にします。 これは学校のテストにも、当てはまります。テストが返却されて、「オレは何点」、「オマエは何点」と友人同士でマルの数を競うことに力を入れる生徒もいますが、それよりも間違えた問題を繰り返し解き直すほうが大切です。間違え直しを宿題にする先生もおられます。また、正答を書いているプリントを配布して「生徒がそれぞれ自分で勉強してください」、といったケースも多いですが、テストの準備に何時間もかけ、テスト本番中も一時間近く考えた結晶なのですから、後述するように問題集として保管しておくと良いでしょう。そのため、答案用紙が返却された日のうちに復習に取り掛かったほうがいいでしょう。