偶然からプロの道へプロになるきっかけを教えていただけますか?6年の時に初めて大会に出て、 その時に優勝して近畿代表になってね。何という名前の大会だったのでしょうか?すくすく王将杯といってね。 同じ小学校の中でチームを組む、 3人一組の団体戦。 要するに3人強い必要はなくて。 一人が強くて、 もう一人がそこそこ強かったら、 2勝1敗できると。 それが、たまたま 将棋世界を見てたら募集があって。もうその時には 将棋世界を読まれていたのですね。親戚の家が近くにあって、そこで見て。 親に許可なく勝手に申し込んで(笑)。あとからお許しを得られたのですね(笑)。僕が大将でね。 その当時、アマチュア一級くらいやけど (参加者が)全体的に弱かったから。 2位と同率だったけれど、 大将点というのがあって、 それで全国大会に行けた。 それでもし負けていたら……。小学生で全国大会へ行くのは、 非常に大きな出来事だったでしょうね。それがきっかけでプロになりたいと思って。 たぶん6年生の11月ぐらいに行って、 それが東京サンシャイン60という……。すごくいい場所ですね。そうそう。無料で東京に行けるしね。 親は当然自腹で来るけれど。好きな将棋を指せて、 いいホテルに泊まれていいですね。これは、どうでもいい話だけど、 全国大会のある東京へ行って、 ミックスジュースが 白いことにビックリした(笑)。これが東京かと。白色でね。何が入っていたのですか?バナナかな。 あと、ちょっとビックリしたことは ユニットバス。 ウチの家とは違って、 湯舟の中で 体を洗うとは知らなかったから。 「アレ?おかしいな」と思って。 その2つが6年生で ビックリしたという。カルチャーショックが 大きかったのですね。全国大会は、勝っても負けても 4回指せるけれども1勝3敗。 1級が全国大会で 勝てるわけがないから実力通りで。 あと、米長棋王(当時)、 林葉さんと先崎さんが 大会の審判で来ていてね。 毎年、米長先生が審判長で、 その時だけ先崎3級、 林葉6級(奨励会)が ゲストで来ていたんですよ。豪華ですね。豪華メンバーでね。 指導対局は米長先生と二枚落ちで、 王手竜取りをかけられて負けて。 「勝ったと思ったでしょ?」と 米長先生に言われてね。 まあそういうのがあって、 大会が終わって そのまま帰るのも悔しいし、 寂しいから先崎さんに 教えてもらおうと思って。滅多にない機会ですよね。でも緊張するし、 周りにいた子どもも 「お前言え、お前言えっ」 て言うから、 最後に僕が思い切って 「将棋教えてください」って お願いすると、 先崎さんが「はい」って言ってくれた。良かったですね。ところが、将棋を指すと、 これがまたメッチャ弱いねん。どういうことですか?こっちがボロ勝ちして。 相手の先崎さんが弱すぎるねんね。でもアマチュア1級が 奨励会員に勝つのは……。そう、勝てるわけがない。 それで名前を聞いたら違う人だった(笑)。 先崎さんじゃなかった。 顔が似ていて、 ただの兄ちゃんに声をかけたという。どちらが指導したのか わかりませんね(笑)。そういうオチがあって。 何人かで緊張しながらお願いしたけれど、 名前を聞くと「小西です」と。 そういう思い出もあるという。ニセ先崎先生とは 駒落ちだったのですか?駒落ちしてもらったけれど、 こっちが平手でも強いのにね。 別人だったという、 顔は似ていたけれども。南口先生との出会い小学生6年生の時に 京都の南口先生の所に通いだしたという。お住まいの奈良からだと、 京都は遠いですよね?それがどうしてかと言うと、 奈良県で優勝する直前に、 父親が親友と再会してね。 その親友の部下が 南口九段の息子だったから。 ややこしいけれど(笑)。偶然が重なったのですね。高校まで付き合いがあった親友と 父親がスーパーでバッタリ。 それがなかったら 南口門下にもなってないしね。 今から考えてもスゴイ偶然で。そういったいきさつが おありだったのですね。それで、土曜日は一時間半かけて 奈良から京都まで通うようになってね。 家から最寄り駅までは 父親に送ってもらって。 京都からは、 地下鉄に乗って 丸太町から二条城まで歩いて。 小学生は歩幅が小さいから 矢鱈遠くて。 南口先生の将棋専用の マンションに先生と 二人で泊まって、 日曜日にも将棋を指してもらって。朝からですか?朝から。 当時は6年生で 1級だったけど。初めての時はいかがでしたか?入門試験が二枚落ちで1勝2敗。 負け負け勝ち。 要するに親と一緒に行って 3連敗だったら こっちの立場がないから、 最後は緩めてくれた。毎週、奈良から 京都へ小旅行のようですね。南口先生が 当時66歳くらいで 夜八時くらいには寝るから。 電気消して 「もう寝なさい」と言われても、 こっちは寝られへんしね(笑)。修行時代ですね(笑)。それで、 いつも昼は 餃子の王将と決まっていて。決まっていたんですか?(笑)6年生やから、 酢豚とか言う余裕がないから、 日曜日は焼き飯250円。 6年生だから 焼き飯しか食べる余裕はなかった。それはお一人だったんですか?一人。いつも行っているから、 僕が店に入ると、 注文する前から、 店の人が笑いながら 焼き飯を作っているイメージがあって(笑)。 さっきも、ちょっと言ったけれど、 父親が家から 最寄り駅まで車で連れて行ってくれて、 そこから京都までは一人で。 そういう生活を1年くらい続けて。1年で終わったのはどうしてですか?なんで終わったかというと、 南口先生が大会の審判で 挨拶をしている時に突然倒れて。 「バーン」と脳溢血で。 その日、僕は先生と一緒に 京都王将戦の会場に 向かっていたけれど、 タクシーの中で、 自慢話をするんやね。 普段せえへんのに。 「おかしいなあ」と思っていたら、 会場着いて……。 どんな話だったかと言うと、 要するに木村十四世名人と 将棋を指すのは、 震えるぐらいだった。 無敵の木村名人相手だから。 ただ、南口先生が戦争を経験した後は、 対局しても怖くなかったと。 生きるか死ぬかの経験をしているから、 将棋が強くなっていたということで。升田幸三先生にも 同じようなエピソードがありますよね。そうそう、そういうものかもしれないですね。 精神面で逞しくなっている。 その日は荷物をマンションに置いて 手ぶらで家に帰った。 それで、南口先生の弟子が 森信雄先生なので 引き取ってくれたということで。奨励会に入る時には 師匠が必要ですよね。ええ。その時は、 ちょうど研修会に 入るかどうかの頃だったけれど。 南口教室が終わった時が、 研修会が発足された時期で。 それで、一回だけ 村山聖さんが南口教室に来た。 森先生と一緒に。村山先生は 増田先生からすると……一つ上で畠山兄弟と村山さんは同学年。 久保さんは5歳下で。 その時に村山さんが 教室で強い子と指すことになって。増田先生と指されたのですか?僕が将棋を出来たら良かったけれども、 まだ初段だったからね。 もっと強い三段ぐらいの子がいて、 その子と。 その将棋を見たかったけれども、 帰りの電車の時間だったから。 あとで「村山さんがボロ勝ちした」 って聞いたけれども。その時、村山先生とは、 何かお話しなさったのですか?その時は、兄弟子になるとは知らなかったから、 「奨励会受けるん?」と、 タメ口で友達のノリで 話しかけていた(笑)。 こういうことがあって、 今から考えると、 南口先生、研修会というレールに 乗っていました。研修生から奨励会員へ研修会の一期生で当時僕は中1だったんです。中1ということは、今よりも34~35年ぐらい前ですね。 先生は今おいくつですか?先生は今おいくつですか?47。2月生まれなんで、 12歳の中1。 畠山鎮さんは中2。 この時は、確か 畠山鎮さんが B2ぐらいで入ったのかな。 僕がD1で当時アマ初段。 E2が一番下で。 幹事が小林健二先生……当時七段。 コバケン先生と浦野真彦新四段でね。 その時は15人ぐらいしか居なかった。15人ですか?15人いるかどうかの少ない人数で。 連盟の4階の和室で。B2ということは、 畠山先生が研修会で 一番上のクラスだったのでしょうか。四段ぐらいあったんでね。 どこ行っても鎮さんがいるから。 京都の八幡の 小さい大会に行ってもいて、 そこでもまた負かされたりね。 ちょっと抜けた存在だった、 その当時から。 兄の成幸さんは、 もう奨励会に先に入っていたんですね。 鎮さんより一年くらい早く。その後、増田先生が 中学3年生の時に、 四段でA2になられたと……。なんで上がったのかと言うと、 本池君というライバルがいたんです。 同学年で 同じ奈良県出身の子がいたから A2まで行けたというのはある。 彼とは奈良県の中学生大会で 中1の時に決勝で当たった。 勝てば天童に行けるという選抜の。 それでボコボコにされて。 向こうが四段ぐらいで、 こっちが初段だから、 だいたい飛車落ちくらいの 手合いだったね。 そこから、とりあえず 本池に勝とうと思って猛勉強。 夜中の2時、3時まで 「打倒本池」と壁に貼って。 それが功を奏したのか、 中2の時にまた決勝で当たって。 そうしたら僕が勝って、 天童に行ったと。 ライバルに追いついたのですね。中3で、研修会のA2から奨励会に仮入会。 それが、本池とまた偶然に同じ6月10日で。入会まで同じだったのですね。だからその年の5月にあった 中学生選抜の奈良県予選では、 僕が優勝、本池君が準優勝だったけれど、 奨励会に入っていたから、 8月の大会には行けなくてね。 それで奈良県は代表辞退ということになった。お二人が飛び抜けて強かったのですね。ただ、残念なことに 本池君は高1でやめてしまったんですね。 それから奨励会員も棋士も 関西には同学年がいないから、 ライバルがいなくなったというのが、 残念なことで。 それがちょっと損。子供時代の1歳違いは、全然違いますからね。ただ関東は羽生さんとか森内さん、 すごいメンバー。関西は誰もいない。 それが珍しい。 さっきも言ったけれど、 僕は昭和60年の6月に 仮入会という形で6級で入ったけれども、 その年の夏にあった 奨励会試験からの入会組はゼロ。 久保(利明王将)とか矢倉(規広七段)が落ちたから。厳しいものですね。なぜかと言うと、 その時は奨励会相手に 2勝1敗しないと 通過できなかったからやねんね。 今は受験者同士で指して4勝2敗、 そのあと現役の奨励会相手には 1勝2敗でいけるでしょ。 当時は、奨励会員に3回指して、 2回勝たないと入会できなかった。 2回勝つのと1回勝つのとでは違うから。 だから久保・矢倉は、61年入会組。 久保・矢倉・立石の「三羽烏」と 昔よく言われたけれど、 そういう年だったんで。増田先生は私の好きな棋士の先生の御一人です。 続きは明日以降に少しずつアップします。 ホームページが 新しくなったばかりで使い慣れておりません(笑)。 藤井聡太先生が通った ふみもと将棋教室の 文本先生のインタビューはコチラ